ファン・ゴッホと共同生活をしていたことで広く知られているポール・ゴーギャン。しかし、1人の画家としてどのような人生を送ってきたのかはあまり知られていません。
ゴーギャンはどのような作品を描き、どのように才能のある画家だと世間から認められていったのでしょうか。
そんな謎に包まれた画家ポール・ゴーギャンを紐解いていきましょう。
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絵とは関わりがなかった25年間
1848年、共和主義者のジャーナリストである父のクローヴィスと母アリーヌ・マリア・シャザルの間にパリで生まれました。
しかし、生まれてすぐに父が職を失い、一家でパリを離れ、ペルーに向かいました。その航海中に父は亡くなり、知り合いを頼りながら転々とした暮らしをしていました。
7歳の時、祖父を頼って、再びフランスで暮らし始めます。しかし、幼い頃からスペイン語で育ったゴーギャンはこの年になってから母国語であるフランス語を学び始めました。
いくつか地元の学校に通った後、ゴーギャンはカトリックの寄宿学校プチ・セミナール・デ・ラ・シャペル・サン・メスミンに入学し、そこで3年間過ごしました。
その後、20際の時に兵役でフランス海軍に入隊し、2年間勤めました。23歳の時パリに戻ると、パリ証券取引所での職を得て、株式仲買人として働くようになりました。その後11年間にわたり実業家として成功。株式仲買人としても活躍し、絵画取引でも多くの収入を得ていました。
当時は絵を描き側ではなく買う側だったことに驚きです。
画家ゴーギャンの始まり
1873年、ゴーギャンは、デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッドと結婚しました。その頃からゴーギャンは暇があれば絵を描くようになりました。
家の近くの印象派の画家が集まるカフェでカミーユ・ピサロと知り合い、日曜日になるとピサロの家を訪れ一緒に絵を描いていました。ゴーギャンはピサロのおかげで様々な画家と知り合うことができ、サロンに入選するほどの腕前になっていきました。
その頃に書かれたとされるのが下記の『ゴーギャン夫人の肖像』です。
ゴーギャンが奥さんを描いた唯一の絵画だと言われています。
1882年、パリの株式市場が大暴落しゴーギャンの本業も大きなダメージを受け収入も急減しました。そのため、ゴーギャンは少しずつ絵画を本業にしようと考え始めました。
画業で生きていくという決心をピサロなどの友人へ送った手紙にも書かれているそうです。
生活費がなるべくかからないルーアンという町に移った。
しかし、現実はそう甘くはなく、困窮し、雑多な雇われ仕事を余儀なくされました。その後パリへ戻ることになりました。
パリでも厳しい生活は続き、パリに戻ってからの1年で描いた絵は下記の『水浴する女たち』だけと言われています。
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画家人生の転機となったポン=タヴァン
ゴーギャンは、1886年、ブルターニュ地方のポン=タヴァンの画家コミュニティで暮らし始めました。最初は、生活費が安いという理由でしたが、ここでの若い画学生たちとの交流は、大きな転機となりました。
ここではエドガー・ゴネなどの手法を真似て、下記の『ブルターニュの羊飼い』のように、人物が表れる風景を描いた作品を多く制作しました。
ゴーギャンはその後もポン=タヴァンには頻繁に訪れました。
ここで描かれた絵は純色の大胆な使用と、象徴的な主題の選択が特徴であり、後にポン=タヴァン派と呼ばれるようになりました。
インド系移民との出会い
ゴーギャンはパナマを訪れた際、破産しました。その当時のフランス法に従い、国の費用で本国に戻ることになりましたが、マルティニークのサン・ピエール港で船を降りました。それから約半年間、マルティニーク島に滞在していたと言われています。
この下船が計画的なものだったのか、突発的なものだったのかについては、研究者の間で意見が分かれています。
島内を旅行して回り、インド系移民の村も訪れたといわれていて、ゴーギャンの後の作品にはインド的モチーフが取り入れられています。
下記はマルティニーク島で描かれた『林の中の小屋』という作品です。
このマルティニーク島で描いた作品を見て感銘を受けたのが、後に共同生活をすることになるゴッホです。ゴッホの弟のテオはゴーギャンの作品を購入し、展示会に飾り多くの人を招待したと言われています。そしてゴーギャンもゴッホと親しくなり手紙でやりとりを続けていました。
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ゴッホとの共同生活の始まり
ゴッホはゴーギャンの作品の魅力に惹かれて、一緒に制作活動をしたいと申し込みました。ゴッホの猛烈なアプローチの結果、1888年から当時ゴッホが住んでいた「黄色い家」での共同生活が始ました。
下記がゴッホの描いたゴーギャンと共同生活をした『黄色い家』です。
ゴッホは下記のようなゴーギャンの絵も描いています。
『ポール・ゴーギャン(赤いベレー帽の男)』という作品です。
ゴッホの有名作品の「ひまわり」はゴーギャンを歓迎するために描いたものだと言われています。また、ゴーギャンもゴッホのひまわりを絶賛しました。
しかし、2人の価値観や芸術観は全く噛み合わず、関係は次第に悪化しました。ゴーギャンはゴッホのわがままで傲慢な性格に嫌気が指していたと言われています。
そのためゴーギャンは黄色い家を去ることにしました。12月23日の夜、あの伝説のゴッホの「耳を切り事件」が発生しました。ゴーギャンに怒鳴られた興奮したゴッホは剃刀で自身の左耳を切断したのです。
それからゴッホは病院に送られ、2人が会うことは2度とありませんでした。
数多くの作品を生んだタヒチ
耳切り事件の後、ゴーギャンの人生を語られることは多くありません。
しかし、ゴーギャンはこのタヒチでの滞在中に多くの作品を生み出し、評価されるようになりました。
ゴーギャンはこの度の目的を「人工的・因習的な何もかも」からの脱出でした。それでもゴーギャンは古くからある写真や版画から離れることはありませんでした。
自分で竹の小屋を建て、アトリエで描いた下記の『イオ・オラナ・マリア』という作品が最も評価を得ました。
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荒れ始める人生
パリに帰ったゴーギャンでしたが、パリ美術界で孤立しタヒチに戻りました。その後6年間をタヒチで過ごしたといわれています。
画家としての評価を得たゴーギャンは、タヒチの政治界でも大きな発言権を持つようになりました。地元紙では編集長も任され、知事と官僚に対する口汚い攻撃が特徴でした。
しかし、健康状態も悪く、何度も入院を繰り返していました。また、銀行からも大きな借金をするなど何もかもうまくいっていませんでした。
そんな失意の中、以下の『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という作品を描き上げました。
インテリア 絵画ポスター ゴーギャン 『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』 A3サイズ
ゴーギャンはこの作品を自ら傑作と認めています。しかし、完成後、ゴーギャンは自殺を試みるほど精神は安定していませんでした。
この頃描いた作品の多くは高値で売れ、借金生活からも解放されました。そして、タヒチでの最後の数ヶ月は優雅に過ごすことができました。
逮捕からの死
タヒチで6年間過ごした後、マルキーズ諸島に訪れました。
しかし、マルキーズ諸島のカトリック学校を批判したり、女生徒は学校に行く義務はないなどの主張をし、住民からは嫌われていました。
ここでも新居を建て、絵を描いていたゴーギャンでしたが、体調はますます悪くなりました。足の痛み、動悸、全身の衰弱、視力も悪くなり、最後に描いたとされる自画像ではメガネをかけています。
それからは、体調の悪化が原因でほとんど絵を描くことはできませんでした。
1903年、ゴーギャンは島の国家権兵やその部下の無能力や汚職を告発する活動を始めました。しかし、逆に彼らから名誉毀損で訴えられることとなり、罰金と禁錮3か月の判決を受けてしまいます。
ゴーギャンは有罪判決を覆すため、控訴のための準備をしていました。
そんな中、1903年5月8日、突然に死は訪れました。近くの住人がゴーギャンが死んでいるのを発見。原因は心臓発作とされています。
ゴーギャン死亡の報は、半年以上もフランスに届きませんでした。遺言はなく、ゴーギャンが描いた手紙、原稿、絵画は競売にかけられました。このように財産が速やかに処分されてしまったため、彼に関する情報が少ないのではないかと言われています。
終わりに
ゴッホとの耳切り事件の印象しかなかったゴーギャン。挫折ばかりの人生でたくさんの方に嫌われながらも、色々な地を旅しながら孤独に作品と向き合い、自らの思いを表現していました。ゴーギャンの名が現代まで受け継がれているのは一部の人が彼の才能に気づき、強く惹かれていたからではないでしょうか。
画家を目指したのが随分と遅かったというのには驚きました。何を始めるにも遅いということはなく、いつ才能が開花するかなんて全く分かりません。
たくさんの画家に影響を与え、フランス絵画を大きく貢献したゴーギャンに少しでも興味を抱いていただけたなら幸いです。
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