ポール・ゴーギャンは1848年に生まれたポスト印象派を代表するフランス画家です。
ゴーギャンといえばゴッホと共同生活をしたということが広く知られていますが、どのような作品を描いてきたかは語られることは少ないですよね。
そんなゴーギャンも実は多くの作品を世に残してきました。
またゴッホとは違う作風で描かれた代表作をいくつか見ていきましょう。

Casie公式LINEアカウントのご紹介

Casieはアートを月額でレンタルできる、サブスクリプションサービスを提供しています。公式LINEではアートを楽しむための情報をいち早くお届けしており、新作アートの紹介やアートの選び方など、インテリアの参考になる情報が満載です。不定期でお得なクーポンも配信していますので、ぜひご登録くださいね。

ゴーギャンの家の広間(カルセル街の画家の室内)

1880年に制作された『ゴーギャンの家の広間(カルセル街の画家の室内)』という作品です。
パリのバージラール地区カルセル街の自宅を描いています。
男性と話しているのがゴーギャンの妻メットです。
この作品は印象派のエドガー・ドガに影響され描かれたものだと言われています。
薄暗い部屋に花を置くことで明るいイメージを持たせています。
画家を反対していた妻メットに対して、自身の画家としての信念を伝えるために制作され強く感じることができる作品です。

説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)

1888年、印象派的表現を捨てて、総合主義を確立させた最初の作品、『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)』です。
旧約聖書を題材とし、神とアラブハムの孫ヤコブとの闘いを描いています。
それを目にしている民族衣装を着た女性たちや、真ん中にある大きな木も印象的な作品です。
自然を描くのでではなく、己の中に感じるものをありのまま描くという画家の表現の本質が見える作品になっています。

自画像(レ・ミゼラブル)

1888年、ゴーギャンの自画像の中でも最も代表される自画像作品です。
この自画像はゴッホに求められて描かきました。
またこの作品はレ・ミゼラブルの主人公ジャン・ヴァルジャンのような不敵で無頼的な表情を浮かべた姿で描かれています。
さらに右側には1888年にゴーギャンと共に総合主義を成立させたエミール・ベルナールの肖像画が掛けられているのが特徴的です。

ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ

1888年、ゴッホとの生活の中で描かれた作品です。
ゴッホが代表作である『ひまわり』を制作している時の肖像画を描きました。
しかし、ゴッホはこの作品を批判し、関係が悪化していきました。
この作品が大きな要因となり2人の間で「耳切り事件」起こったのです。

タヒチの女たち

ゴーギャンがゴッホの元を離れ、1891年から滞在したタヒチで到着してすぐに制作された作品で、同地の女性を画題とした作品の中でも特に画題に特化した作品として有名です。
色の明るさや力強さから、ゴーギャンのタヒチの光景を初めて目の当たりにしたことによる喜びがこの作品に表していると言われています。
また神秘性や自然美をも同時に表現されている作品です。

我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか

後期印象派の代表し総合主義の創始者ポール・ゴーギャンの集大成の傑作『我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか』という作品です。
タヒチに滞在した中での最高傑作として広く知られていて、当時から数多くの画家や評論家に絶賛されました。
この作品が制作する直前に最愛の女の死を知らされていたゴーギャンはこの作品の完成後、自殺を測っていました。
そのため、この作品は遺書として描いたものだったのではないかと言われています。
生と死、光と闇を表現しているこの作品はゴーギャンの画家としての世界観が示されています。

ひまわり

ゴーギャンが亡くなる2年前に描いた『ひまわり』です。
タヒチを出てから移住することになったマルキーズ諸島で描かれました。
この作品は共同生活を送りながらも喧嘩別れをした亡きゴッホを想いながら描いたと言われています。
ゴーギャンは制作のためにフランスにいる友人に頼んでひまわりの種を送ってもらったそうです。
ゴーギャンとゴッホの「ひまわり物語」、、素敵ですね。

いかがだったでしょうか。
ゴーギャンは目に見えている風景や人だけでなく、自分の感じたものを強烈な世界観で表現する画家だということが分かりました。
ゴーギャンやゴッホに興味を持った方はぜひ下記の記事もご覧くださいね!


合わせて読みたい